幼い頃、空に憧れパイロットになりたいと夢見たことは誰にもあると思います。日本での熱気球は、1969年、京都のイカロス昇天グループと北大探検部による「イカロス5号」の飛行に端を発し、既に飛行活動を始めていた社会人グループを含め、愛好家の集いができ、日本熱気球連盟が組織されました。当初は手作りによる機体製作と、飛行技術の研究が盛んに行われていました。1975年に日本気球連盟と改名されました。
その頃、岡山にも熱気球に興味を持ち、試行錯誤の中、自作に向けて設計に取り組んでいる「バルーンクラブ備前」の創設者K.E.氏がいました。暗中模索の夜鍋仕事の設計は、1974年から1978年まで5年間を費やしました。実際に製作に取り組んだのは、1979年4月からで、同年の11月に熱気球「JIN・BAM」を完成させました。気球の命名は、K.E.夫妻の手作りから、おジン・おバンの子、「ジン・バン」としたそうです。勿論、岡山県では初の熱気球でした。1979年11月4日早朝、テストフライトに成功し、同月22日から福岡県甘木市で行われた「バルーンフェスタ・イン・九州」が初フライトでした。以来、1985年まで実に6年間活躍しました。
1985年10月に2機目の気球「Mr・B」をジャパン・バルーン・サービスより購入しました。青色を基調としたバルーンで、空色と混じりあまり目立たない気球でした。1992年4月まで活躍しました。
「Mr・B」がまだ健在な時、1988年に「JIN・BAM」を手作りしたK.E.氏の奥さんが病気で他界し、どうしてもその名を残そうということで、1989年11月に3機目の「JIN・BAM・U」をイギリスのファイヤーフライ社の国内代理店(株)スカイプロモーションより購入しました。初代の「JIN・BAM」のデザインを少しアレンジした、体積1,560m3(AX−6)と少し小さ目の気球です。バスケットもバーナーも三角形で、球皮とバスケットはケプラーロープで接続されていました。専ら競技気球として使っていました。その当時使っていた運搬車両はスペースが若干狭くて、バスケットは車の上のキャリー台に乗せていて、飛行の度の昇降が大変でした。
1995年代に入り、クラブとしての係留飛行も多くなり、体積2,190m3の4機目の熱気球「JIN・BAM・V」をイギリスのリンドストランド社の国内代理店(株)ビーより購入しました。
現在もかろうじて現役ですが、最近は係留飛行に専念しています。
5機目の気球を2000年12月に購入したばかりです。この気球は4機目の「JIN・BAM・V」と、メーカーも大きさもデザインも全く同じで、登録名だけ「JIN・BAM・W」となっています。
1979年11月の初フライトから25年が経過し、いままでに育ったパイロットは40数名を数えます。それぞれに独立し、あるいは就職し、転勤して各地に巣立っていきました。結婚し、子供ができ熱気球を卒業したメンバーも少なくありません。
現在、イグザミナーであり創設者のK.E.氏とインストラクターのK.Y.氏が主軸となり、パイロットのK.I.氏、H.F.氏、T.F.さん、Y.K.さん達と共に熱気球に関する広報活動等を行っています。その他にもフライトを楽しんだり、クルーとして手伝っている(パイロットを目指さない)人も数人がメンバーとして活躍しています。
クラブ創設当時の気球は、フローティングタイプといって、バーナーとバスケットをワイヤーで接続してあるだけで、フライト時にはヘルメットが必需品でした。それでもハードランディングの時などガツンと衝撃を受けました。当クラブでも1987年頃からリジットタイプ(バーナーを柱で固定したもの)に変えてすごく飛行が楽になりました。
現在の熱気球は、国産品でも輸入品でも随分と改良されており、多少の風でもフライト出来ます。それだけに当クラブでは全員が安全フライトに徹しています。 岡山でも熱気球が定着し、「バルーンクラブ備前」の他に4グループがあり、「岡山熱気球連絡会」を結成しています。